イタリア散歩(その1)
今回の散歩人 佐竹 徹(東京在住)
一泊目(ミラノ)
前日夕方ミラノのホテル(Star Hotel President)に到着。
早朝、ホテルの周り(住宅街)を散策。
前から見るとそんなに大きな家には見えないが、裏の方は大きな庭があり、敷地は最低でも300坪以上あるような邸宅が並んでいる。やはりミラノの高級住宅街なのであろうか?
la Spezia
ラ・スペツィア(イタリア語: La Spezia, )は、イタリア共和国リグーリア州東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約9万3000人の基礎自治体(コムーネ)。ラ・スペツィア県の県都である。
リグリア海に面した港町である。イタリア海軍の重要な軍港の所在地であり、造船所や軍需工場も数多くある。
- 映画『U・ボート』で登場するUボートが目指したのがこの地である。
- 作曲家ワーグナーの自伝によれば、ワーグナーがこのラ・スペツィアに滞在中に詩的霊感に襲われ、歌劇『ラインの黄金』の序曲が生まれたという[6]。
- 作家D.H.ローレンスは、1914年、この地で『虹』 (The Rainbow) と『恋する女たち』 (Women in Love) を執筆。
メイン通りは堂々とした建物が並んでいる。やはり県庁所在地だけのことはある。
野外マーケットがえんえんと続く。ほどんどの店は女性用の衣料品の店。
市街地中心部にあるパーキング。
海岸沿いの公園。すぐそばは海軍基地で軍艦が停留している。
チンクエ・テッレ
la Speziaから電車でチンクエテッレの中の一つの村Vernazzaに行く。距離はla Spezia から約10㎞。電車は山の中のトンネルの中を走っていく、いわば地下鉄のような感じ。駅も地下にある。駅は山の中腹にあるので海岸までは10分位歩いて行く。
チンクエ・テッレ
「チンクエ・テッレ」は、イタリア語で「5つの土地」という意味をもち、"5 Terre" と表記されることもある。リグーリア州ラ・スペツィア市の西方に所在する、地中海(リグリア海)に面した次の5つの集落の総称である[1]。
モンテロッソ・アル・マーレ (Monterosso al Mare) - 西北端
行政上はラ・スペツィア県に属し、モンテロッソ・アル・マーレ、ヴェルナッツァ、リオマッジョーレの3つの基礎自治体(コムーネ)にまたがる。
5つの集落のうち最大の人口を有するのは東南端のリオマッジョーレ(1,142人、2001年国勢調査時点[2])で、ラ・スペツィアから西へ7 km、州都ジェノヴァから東南東へ72 kmの距離にある。西北端のモンテロッソ・アル・マーレとの間は直線距離にして約8 km隔たっている。
ともに世界遺産に登録されているポルトヴェーネレはリオマッジョーレから南東へ9 kmほどの距離にあり、ポルトヴェーネレ沖合の小島群(パルマリア島、ティーノ島、ティネット島)ともども同じラ・スペツィア県内にある。
昔使っていたブドウ圧搾機
村の漁港兼広場
イスラムの影響が強かったの教会も回教寺院のような外観をしている。
これでも駅から村の中心に続くメインロード、時々民家の中を通っていく。
丘の遊歩道に面している瀟洒な邸宅。
遠くに見えるのは昔の要塞だと思う。昔は海からよく敵が攻めてきたらしい。
のんびりとくつろいでいる猫。イタリアの猫は手足も長く顔も小顔だ。
レモンの木だが、もう収穫済みで実が一つも残っていない。
この電車でVernazzaから、 Manarola へ移動した。
Manarolaの駅から海岸への道、さすがに Manarola は一番人気で大混雑していた。
崖によく建物を建築した!これも外敵の侵入に備えたもので、なにも好んでこんな難しい建築をしたのではないとのこと。壁の色がカラフルなのは漁にいった家の人が沖から自分の家を見分けやすくする為。
ここが村の中心の広場。
キリスト教関連のこうした飾りがかなり見受けられた。
こうした家の入口はどこにあるのだろうか?
ヨーロッパの人は日光浴が本当に好きなのだろう。
山腹の遊歩道は気持ちよく歩ける。伊豆の海岸沿いを歩いても同じかなとも思うが、でも見える海は地中海だと思うと灌漑深い。
Genova(ジェノバ)泊
la Spiziaから約100㎞
こジェノヴァ(伊: Genova ( 音声ファイル))は、イタリアの北西部にある都市。その周辺地域を含む人口約57万人の基礎自治体(コムーネ)。リグーリア州の州都であり、ジェノヴァ県の県都である。ジェノバとも表記する。
リグリア海に面した港湾都市で、中世には海洋国家(ジェノヴァ共和国)として栄え、商工業が発展した都市でイタリアの金融業の中心地としての長い歴史を持つ。現代においてもミラノ、トリノなど北イタリアの産業都市を背後に持つジェノヴァ港はイタリア最大の貿易港であり、地中海有数のコンテナ取扱高を誇っている。コムーネ人口は全国6位(2011年現在)。
こは訪問者が最初に目にする場所なので、ビジネスのキャッチコピー表示に最適です。
歴史
古代・中世
ジェノヴァの古名 Janua または Jenua は ケルト語の入り口の意、他の説によると先住民族の王だったと思われるヤヌス(イタリア語ではGiano)から来たとも。
紀元前6世紀頃から人類が居住していたとされる。ローマ時代には以前より天然の良港という環境を生かし、海運業や軍港として発展した。
ジェノヴァ共和国
1100年頃より自治都市となり、その後はジェノヴァ共和国として発展する。ヴェネツィア、ピサ、アマルフィなどの他の海洋都市国家と競いながら、軍事力、経済力の影響力を増した。特に商船、軍艦による通商・金融の分野でヨーロッパ全土に権威をふるい、黒海貿易を独占するなどした。コルシカ島、カッファなどのクリミア半島南岸諸都市、コンスタンティノポリスの金角湾北部、イスラーム統治下のイベリア半島諸都市などに植民地あるいは商館を築くなど、地中海の覇権をヴェネツィアやオスマン帝国と争った。16世紀には金融業で財を成した貴族が多く現れ、繁栄がピークに達した。アンドレア・ドーリア海軍提督の頃はスペイン王に協力し、多くの貴族が金融で富を築く。その頃は la Superba、すなわち「華麗な都市」との異名があった。
フランス革命戦争からイタリア統一まで
1797年、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に侵攻され、その傀儡国家であるリグリア共和国となり、1805年にはフランスに併合、ナポレオン失脚後のウィーン会議後も共和国であったため回復させてもらえず、ウィーン議定書によりサルデーニャ王国へ編入され、ジェノヴァは独立を失った。その後リソルジメントでサルデーニャ王国がイタリア半島統一を成し、イタリアの有力な都市の一つとして発展した。
Piazza della Vittoria
ストラーデ・ヌオーヴェ(ジエノバに集まる5つの通りの総称)
Piazza della Vittoria
Star Hotel President
フェラーリ広場
フェラーリ広場
宮殿入り口の天井彫刻
宮殿の玄関の彫刻
ホテルの窓からの風景(多分ジェノバ駅)
大きなレストラン(大きすぎるし、お客さんで混雑しているはで何を食べたか覚えていない。)
宮殿入り口にあるマーケット
大聖堂
大聖堂
大聖堂
モデナ(伊: Modenaは、イタリアのエミリア=ロマーニャ州にある都市。その周辺地域を含む人口約18万人の基礎自治体(コムーネ)。モデナ県の県都である。
古代に起源を持つ都市で、中世にはモデナ公国の中心都市であった。特産品として、バルサミコ酢が有名である。自動車メーカー・フェラーリの本拠地マラネッロは郊外(モデナ県下)にある。
エトルリア人の定着、その後のガリア人紀元前183にはローマの植民地となった。当時は「ムティナ」(Mutina)と呼ばれ、紀元前2世紀に始まるエミリア街道の敷設の拠点となった。5世紀から7世紀にセッキア川とパーナロ川の氾濫が原因で、住民はより西のチッタノーヴァに移動した。
モデナは12世紀には自由都市として1288年からはフェラーラのエステ家の元で過ごした。司教区内の人口が徐々に回復し、町の指導者に就いたレオドイーノ司教は、891年に町の周囲に壁を作った。
司教によるシニョリーアの時期に、新たな大聖堂が建設された。司教の権力は1135年の自治コムーネにより終わったが、1249年のフォッサルタの戦いで、皇帝派のモデナは教皇派のボローニャに敗北し、1288年にはフェッラーラのエステ家の手に渡った。
しかし、モデナはチェーザレ・デステ公の時代の1598年以後に彼の公国の首都はフェッラーラからモデナに移された。イタリアとヨーロッパの権力争いによって国の運命は翻弄され外国の軍隊(1702年のフランス、1742年のオーストリア)の占領が繰り返されるも、唯一ナポレオン時代中断はあったものの、イタリアの統一まで抵抗を繰り返した。
18世紀の終わりと19世紀の始めにはエミーリア、特にモデナ県は当初は社会主義者の、後には共産主義者の砦となった。第二次世界大戦において1943年にイタリアが連合国軍に降伏した後、北イタリアがドイツ軍に占領されたモデナは、ドイツ軍とドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)の作戦による、破壊、虐殺、略奪、恥辱を受けることとなった。ドイツ軍はこの地域に全力の制圧に力を入れたにもかかわらず、市民の大多数の参加による非常に大きなレジスタンス活動により抑圧に成功しなかった。
第二次世界大戦後の共産主義政党による市政への強い影響は、街の文化的特質となりつつあったこれらの左翼主義者たちの遺産を集めた物だった。第二次世界大戦後に中部イタリアから北部イタリアでは、イタリア共産党などの左派政党が強い支持を得たが、イタリアのどこよりもこの州において左派の協同組合が生まれたのも偶然ではない。
なお、中世において学問の中心であった、752年に設立されたノナントラの修道院や大聖堂、トッレ・チヴィカ(ギルランディーナ)、グランデ広場は、ユネスコの世界遺産に登録されており、多くの観光客を集めている。
古代
ボローニャの周辺地域では、紀元前9世紀ごろには定住民が暮らすようになった。かれらの文化はヴィッラノーヴァ文化と呼ばれ、紀元前6世紀ころまで続く。なお、この「ヴィッラノーヴァ文化」という名称は、19世紀にボローニャ近郊のヴィッラノーヴァ(カステナーゾ市)で発掘調査が行われたことに由来する。紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけて、この地域にはエトルリアの影響が及び、住民もウンブリ人 (Umbri) からエトルリア人に移り変わった。エトルリア人の時代、町はフェルシナ(Felsina)の名で呼ばれた。
紀元前4世紀、ボローニャとその周辺地域は、ポー川以北からやってきたケルト人(ガリア人)の一部族・ボイイ族によって征服された。短い抗争の期間を経て、ボイイ族はこの地に定着してエトルリア人と混合した。近代の歴史学者はかれらの文化をガリア=エトルリア文化と呼んでいる。アペニン山麓のモンテ・ビベーレ (it:Monte Bibele) (モンテレンツィオ町)はその代表的な遺跡である。ボイイ族による支配は、紀元前196年にローマ人によって破られるまで続いた。
ボイイ族をはじとするガリア人はテラモンの戦い(紀元前225年)でローマ人に大敗を喫し、やむをえずローマ人の影響を受け入れることになった。しかし、ポエニ戦争に際してガリア人はローマに反旗を翻し、アルプスを越えたハンニバルを支援して歩兵を提供した。カルタゴ人の敗北は、ガリア人の自由の終わりでもあった。ローマ人はガリア人の多くの町や村を破壊した(モンテ・ビベーレもこの時に破壊された)。
破壊にした町に代わってローマ人によって紀元前189年頃に植民市であるボノニア(Bononia)の都市を建設した。この植民市への移住者の中には、執政官(コンスル)のルキウス・ウァレリウス・フラックスに率いられたラテン人の3000世帯が含まれていた。ガリア人はローマ人の中に吸収されたが、かれらが使っていたケルト語の影響はボローニャ方言の中に残っている。紀元前187年にはアエミリア街道が建設されるとボノニアは交通の要衝となり、フラミニア・ミノール街道 (it:Via Flaminia militare) によってアレッツォと、アエミリア・アルティナーテ街道によってアクイレイアと結ばれた。
紀元前88年、市はムニキピウム(municipium)となった。市は6つのカルディ(cardi)と8つのデクマニ(decumani、交差する道路)で構成された直線的な街路設計が行われ、これらは今も見分けられる。ローマ帝国時代の都市の人口は、1万2000人ないし3万人であった。最盛期にはイタリア第2の都市にして帝国内でも最重要の都市の一つであり、多種多様な神殿、公共浴場、劇場、アリーナがあった。地理学者ポンポニウス・メラ(英語版)は、ボロニアをイタリア内の裕福な(opulentissimae)5都市に含めた。クラウディウス帝時代に市は火事で損傷したが、ネロが紀元1世紀に再建した。
ローマ帝国の衰亡後、この地はオドアケル、東ゴート王国のテオドリック、東ローマ帝国の支配下に置かれた。ランゴバルド王国の版図に収まった。ランゴバルド人はこの都市を軍事拠点として用いた。774年、フランク王国のカール大帝によってこの都市は占領され、ローマ教皇に寄進された。
中世
長い衰退の後、ボローニャは5世紀、ペトロニウス(のちに列聖)が司教を務めた時代に生まれ変わった。ペトロニウスは聖ステファノ教会を建てた。
ローマ帝国衰退後、ボローニャはポー平野にあるラヴェンナ総督府の辺境要塞となり、城壁の列で守られていた。しかし古代ローマ都市の廃墟は囲まれなかった。728年、市はロンゴバルド族の王リウトプランドによって攻略され、ロンゴバルド王国の一部となった。ゲルマン人征服者たちは聖ステファノの教会複合施設近郊で、アッディツィオーネ・ロンゴバルダと呼ばれる地区をつくった。この地区には786年にカール大帝が滞在した。
11世紀、ボローニャは自由中世コムーネとして再成長を始め、1164年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対抗するロンバルディア同盟へ加わった。1088年、ストゥディオと呼ばれるボローニャ大学が創立された。これが今やヨーロッパ最古の大学となり、イルネリウスのような名の知られた中世の学者、ダンテ・アリギエーリ、ジョヴァンニ・ボッカッチョ、フランチェスコ・ペトラルカといった学生らを誇る。12世紀、市の拡大は新たな城壁一列を必要とし、別の物は14世紀に完成した。
1256年、ボローニャは天国法(Legge del Paradiso)を宣伝した。この法律は、公共の資金を利用して封建的農奴廃止と奴隷の解放を訴えていた。当時の市中心部はおよそ180という塔で埋まっていた。この塔は有力者家族によって建てられ、他には有名な公共の大邸宅、教会、修道院・寺院があった。1270年代のボローニャの政治は、ポデスタ(英語版) (官職名)として仕えていたジェノヴァ出身の政治家・外交官ルケット・ガッティルシオ(英語版)によって支配されていた。当時のイタリア都市の大半同様、ボローニャは教皇派と皇帝派に関係した内部抗争によって引き裂かれていた。この内部抗争は、1274年、皇帝派のランベルタッツィ家の追放が引き金となった。
1294年、人口の多い順に、コルドバ、パリ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノに次いで、ボローニャは欧州で第5か第6の大都市で、6万人か7万人の人口があった。1325年のモデナによるザッポリーノの戦いでの激突後、ボローニャは衰退を始め、14世紀初頭にはローマ教皇の保護を依頼していた。1348年、黒死病大流行の最中、市の人口およそ3万人が死んだ。
ルネサンス
タッデオ・ペポリ(治世: 1337年–1347年)による幸福な支配の後、ボローニャはミラノのヴィスコンティ家のものになった。しかし、1360年に枢機卿ジル・デ・アルボルノスの勢力圏だった教皇領へと返還された。続く年月には1377年のような共和制政権の交替が見られた。ボローニャの有力貴族らが互いに血なまぐさい戦いを続けるのに忙しい間、この政権はサン・ペトロニオ大聖堂の建設、メルカンティのロッジア、そして教皇庁またはヴィスコンティ家復古主義者らへの処置に責任を負った。15世紀半ばに、ベンティヴォーリオ家がボローニャ支配権を獲得し、サンテ・ベンティヴォーリオ(治世: 1445年–1462年)、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ(英語版)(治世: 1462年–1506年)が支配した。
この時代は、著名な建築家や画家が存在し、彼らがボローニャを真の芸術都市にした、繁栄の時代だった。ルネサンス時代、ボローニャは、秀でた女性であればどんな専門的職業にも就けた唯一のイタリア都市だった。ボローニャの女性はイタリア他都市の女性に比べて大きな自由を持っていた。一部の女性は、大学で単位を得る機会すら持っていたのだ。
ジョヴァンニ2世の治世が1506年で終わると、ローマ教皇ユリウス2世軍はボローニャを包囲し、自分の宮殿用にと芸術作品を略奪した。この頃から、ボローニャは教皇領の一部になり、枢機卿に支配され、毎回2ヶ月間選出されるゴンファロニエーレ(gonfaloniere、裁判官)が議員となり、8人の長老コンスルがそれを補助した。1530年、サン・ペトロニオ大聖堂正面で、神聖ローマ皇帝カール5世が教皇クレメンス7世によって戴冠した。
16世紀終わりにペスト流行があり人口を7万2000人から5万9000人へ減らし、1630年には4万7000人だったが、市の繁栄は続いた。人口はのちに回復し、6万人から6万5000人で固定された。1564年、大学の所在地であるアルキジンナジオ館(英語版)に沿ってネットゥーノ広場とバンキ広場が建設された。教皇領時代の支配は多くの教会やその他の宗教施設が建設され、古いものが修繕された。ボローニャには96箇所の修道院があり、これはどのイタリア他都市よりも多かった。この時代にボローニャで活躍した芸術家らは、アンニーバレ・カラッチ、ドメニキーノ、グエルチーノといったヨーロッパに高名をとどろかせた者らを含むボローニャ派を形成した。
イタリア王国時代
ナポレオン・ボナパルトが台頭すると、ボローニャはチスパダーナ共和国の首都となり、続くチサルピナ共和国とイタリア王国時代には、ミラノに次ぐ第2の都市となった。ナポレオン没落後、ボローニャでは教皇庁支配が復活したが、1831年と1849年には、1860年まで市を支配したオーストリア帝国の駐留兵が一時的に追放されるほどの反乱が起こった。
1857年に教皇ピウス9世はボローニャを訪問したが、市は1859年6月12日にサルデーニャ王国への併合に賛成し、イタリア統一運動に合流した。新たな政治状況の下、ボローニャはその文化的重要性を高め、商業、産業、通信の重要拠点となっていった。人口は再び増え始め、20世紀初頭には新たに増えた人口に対処するために、古い市壁が一部を残して破壊された。
第二次世界大戦においてイタリアが連合国軍に降伏し、イタリア北部がイタリア社会共和国とドイツ軍の影響下に入った1943年以降、ボローニャはドイツ軍の重要な輸送拠点だった。
その結果、1944年1月29日にアルキジンナジオ館を襲った空撃によって、バルトロメオ・チェージの手によって書かれたフレスコ画の大部分は失われ、1945年4月21日のアメリカ陸軍第34歩兵師団によるボローニャ攻略は、ポー川谷を開放し、ドイツ軍の北イタリア防衛線の崩壊につながった。
ここで自分についてや事業内容、特筆したいポイントなどを紹介しましょう。長くなりすぎないよう簡潔にまとめるとよいでしょう。
ボローニャの斜塔
Santo Stefano
サン・ジミニャーノ
サン・ジミニャーノ San Gimignano)は人口約8千人のイタリア共和国トスカーナ州のコムーネの一つである。 美しい塔が立ち並んでいることでよく知られており、1990年には、サン・ジミニャーノ歴史地区としてユネスコの世界遺産に登録された。
数々の塔は都市内での権力争いの名残りであり、最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てた。また、中世に自治都市として最も繁栄していた時代には、塔を壊すときには新しい塔を建てなければならない法律が整備されていたこともあった。最も多いときには70を超える塔が建っていたが、多くは取り壊され、現在残っているのは14のみである。また近代、現在の市街地はこの地区から数km離れたところにあり、塔を建てる習慣は残って
シエーナ Siena は、イタリア共和国トスカーナ州中部にある都市であり、その周辺地域を含む人口約5万3000人の基礎自治体(コムーネ)。シエーナ県の県都である。
中世には金融業で栄えた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎えた。トスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、またその経済力を背景として、ルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。中世の姿をとどめる旧市街は「シエーナ歴史地区」として世界遺産に登録されている。
共和国の勃興
1115年、北イタリアの大領主であったトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサが後継者なく没すると、その領域は細分化されて自治的な勢力が勃興し、都市国家群が生まれることになる。金融の一大センターとなり、また羊毛取引の重要な担い手として成長したシエーナでは、市民による自治組織(コムーネ)が勢力を伸ばした。1167年、シエーナのコムーネは、司教による統治からの独立を宣言した。1179年には都市の憲章が制定されている。
カンポ広場は、13世紀初頭までには都市の世俗生活の中心として重要な役割を担うようになった。市場やスポーツ行事(サッカーの原型とされるカルチョ・フィオレンティノなど)の場として利用され、また新しい街路はカンポ広場を中心に作られた。1194年、カンポ広場に面した現在の市庁舎のある場所で、土壌浸食を防ぐための壁が建設されており、このことは広場が重要な役割を持つこととなったしるしと言えるだろう。
1240年にはシエーナ大学が設立された。シエーナ大学は法学と医学で知られた。
シエーナとフィレンツェ
市庁舎壁画、アンブロージョ・ロレンツェッティ『善政の効果』
シエーナ共和国は、内部に貴族と市民の間の対立を抱えながら、外に最大のライバルであるフィレンツェとの抗争を繰り広げた。教皇派と皇帝派の抗争では、フィレンツェが教皇派(ゲルフ)であったのに対抗し、シエーナは主に皇帝派(ギベリン)の立場に立っていた。1260年のモンタペルティの戦い(英語版)で、シエーナはフィレンツェに大勝を収めるも、1269年にはコッレ・ヴァル・デルサの戦い (Battle of Colle Val d'Elsa) で大敗を喫している。この敗戦を契機にシエーナでは皇帝派の政府が倒れ、フィレンツェとの関係が改善された。
13世紀後半から14世紀半ばにかけて、ゴシック期からルネサンス期への移り変わる時代に、シエーナは最盛期を迎えている。ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャはシエーナを拠点に活躍し、シエナ派の祖とされる。アンブロージョ・ロレンツェッティはシエーナのプブリコ宮殿(市庁舎)の壁画(フレスコ画)として、「善政の効果」などを描いた。
14世紀後半から滅亡まで
1348年、黒死病の流行によりシエーナは打撃を受けている。14世紀後半以降には貴族と市民との内部抗争が激化し、政変が繰り返された。
1458年には、シエーナ出身のピウス2世が教皇に選出されている。1472年には、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行(通称モンテパスキ銀行)が創業している。現在営業している銀行では世界最古の歴史を持ち[12]、現在もシエーナに本店がある。
1487年、貴族党派のパンドルフォ・ペトルッチ (Pandolfo Petrucci) が政権を掌握した。ペトルッチは1512年に没するまでシエーナをよく治め、芸術と科学を保護し、チェーザレ・ボルジアから都市を防衛した。しかしパンドルフォの死後、ペトルッチ家の内紛などにより政情は安定せず、皇帝カール5世はスペイン軍団にシエーナを占領させた。1552年、フランスと手を結んだシエーナ共和国はスペイン兵を追放したが、カール5世は傭兵隊長ジャン・ジャコモ・メディチ (Gian Giacomo Medici) を派遣してシエーナの攻略に当たらせた。1555年4月17日、シエーナはスペインに降伏し、シエーナ共和国は終焉を迎える。1559年のカトー・カンブレジ条約で、スペインはシエーナをフィレンツェ公国(のちにトスカーナ大公国)に割譲した。以後、20世紀のイタリア統一まで、シエーナはトスカーナ大公国領となる。
カンポ広場
共和国庁舎
大聖堂
大聖堂
ラヴェンナRavenna
ラヴェンナ Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。ラヴェンナ県の県都である。
古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナ(Ravenna)と呼ばれる。西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府であった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコの世界遺産に登録されている。
ローマ以前
ラヴェンナの発祥は明かでない。最初の定住地はティレニア人、テッサリア人、またはウンブリ人、エトルリア人によるものと多様にいわれている。ラヴェンナは、湿地帯の潟の中にある小島群上に、堆積物を基礎として建てた家から構成された。数世紀後にできたヴェネツィアと成り立ちが似ている。ローマ人はポー川デルタ地帯を征服した間に、のちにラヴェンナとなる定住地を無視した。しかし、紀元前89年に連邦制の町として共和政ローマの中に受け入れた。
ローマ時代
紀元前49年、ユリウス・カエサルがルビコン川を横断する前に自分の軍をこの地で集結させた。紀元前31年、マルクス・アントニウスとの戦い後、アウグストゥス帝がラヴェンナに艦隊用軍港クラッシス(Classis)を築いた。この港は、最初は城壁で守られた重要なローマ海軍の基地であった。現在、市は海から切り離されたが、中世初期までラヴェンナはアドリア海の重要な海港のままだった。
ゲルマン遠征の間、ゲルマン人族長アルミニウスの未亡人トゥースネルダと、マルコマンニ王マルボドゥウスは、ラヴェンナで監禁されていた。
ラヴェンナは、ローマ支配下で大いに繁栄した。トラヤヌス帝は2世紀初頭、70kmの長さのローマ水道を建設した。402年、ホノリウス帝は西ローマ帝国の首都をミラノからラヴェンナへ遷都した。遷都には、第一に防衛目的があった。ラヴェンナは泥沢地と湿地に囲まれ、そして東ローマ帝国の軍との行き来に安心であった。しかし409年、西ゴート王アラリック1世は簡単にラヴェンナを迂回し、ローマへ向かって略奪をし(ローマ略奪)、人質としてテオドシウス1世の皇女ガッラ・プラキディアを連れてきた。多くの変遷ののち、ガッラ・プラキディアは息子ウァレンティニアヌス3世とともにラヴェンナへ戻り、甥テオドシウス2世を支援した。ラヴェンナは、キリスト教が宮廷で厚遇されると、平和の時代を謳歌した。そして市は最も有名な、世俗とキリスト教両方の建造物を獲得した(キリスト教建造物が広範囲に保存されている)。
中世
東ゴート王国の首都
テオデリックの宮殿のモザイク
476年、西ローマ帝国が滅亡し、東ローマ皇帝ゼノンが東ゴート王テオドリックをイタリア半島再獲得のため送り込んだ。ヴェローナの戦い後、オドアケルはラヴェンナへ退却し、リミニが攻略されラヴェンナの補給が断たれるまでテオドリックに3年間包囲された(ラヴェンナ包囲戦)。ラヴェンナは東ゴート王国の首都となった。
493年の後、テオドリックは世俗と信仰の建物(サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂近くの失われた宮殿を含む)のためローマ人建築家を雇い入れた。テオドリック宮殿は付属建築物であった。テオドリックと家臣たちはアリウス派であったが、ラテン人らと平和に共存していた。526年にテオドリックは死に、後を継いだ娘アマラスンタは535年に殺害された。
東ローマ帝国ラヴェンナ総督領
6世紀のキリストのモザイク画。長髪で髭を伸ばし、ギリシャ=ローマ風の聖職者か王族のような衣装を着ている
527年に即位した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、ローマ帝国復興と正統教義擁護を掲げ、東ゴート支配にもキリスト教アリウス派にも反対していた。東ゴート王国の内紛による混乱に乗じたユスティニアヌス1世は、535年に将軍ベリサリウスらを派遣してイタリアに侵攻した(ゴート戦争)。540年、東ゴート王ウィティギスは降伏し、ベリサリウスはラヴェンナを占領した。ラヴェンナはイタリアにおける東ローマ帝国政府(ラヴェンナ総督府)の所在地となった。
ラヴェンナでの帝国の復活(ユスティニアヌス1世の外征でローマ帝国時代の旧領を取り戻したことを指す)も、クラッシス港の恩恵を受けた。時に町は古代後期のポンペイだといわれた。この時代を代表する遺跡は、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(6世紀から7世紀)で、教会内には聖アポリナレスの聖遺物が置かれている。しかしたとえクラッシスがローマ時代につくられたとはいえ、ラヴェンナの成長が著しかったのは帝国の末期であった。ラヴェンナの港として、クラッシスは6世紀から7世紀のカギとなる交易の乗降口であり、イタリア・アドリア海沿岸の主要港であった。
皇帝マウリキウスはラヴェンナに総督府を置いた。これがラヴェンナ総督府で知られる。この時、『ラヴェンナの形状誌』(it、インドからアイルランドまでの地名が記された)が書かれた。
6世紀から7世紀にかけ、総督領はロンゴバルド王国とフランク王国に脅かされ、聖像破壊運動によって東西のキリスト教会は裂かれた。教皇庁とコンスタンティノープル総主教庁との競争が苛烈を極め、総督領の状況は支持されなくなっていった。
リウトプランド王時代のロンゴバルド王国が、712年にラヴェンナを占領した。しかし東ローマ帝国に市を返還させられた。751年、ロンゴバルド王アイストゥルフがラヴェンナ征服を継承し、この前後に最後のラヴェンナ総督エウティキウスが戦死した。北イタリアでの東ローマ支配は終わった。
ピピンの寄進と教皇領
旧東ローマ帝国領を狙うローマ教皇ステファヌス2世は、フランク王国の小ピピンに加勢を求め、ロンゴバルド王国を攻撃させた。旧総督領の征服を完了した小ピピンは、征服した土地を教皇へ寄進し、784年にラヴェンナは教皇領となった。その見返りとして、小ピピンの子カール大帝は教皇庁から後押しを受けるようになった。ハドリアヌス1世はカール大帝に対し、ラヴェンナから好みの物をどんなものも与えると認めた。カール大帝は3度の遠征で略奪を行い、ローマ時代の円柱、モザイク、像、その他持っていける品物を多くの数取り除き、彼の首都アーヘンを富ませた。
教皇庁支配のもと、ラヴェンナ大司教はローマ教会からの独立教会の立場を謳歌した。東ローマ支配下で特権を獲得していたのである。リウドルフィング朝の皇帝らの寄進のため、ラヴェンナ大司教は教皇庁の次にイタリアで2番目に裕福であり、時に教皇の世俗的な権威を変えることができた。 1198年、ラヴェンナは反皇帝のロマーニャ同盟を率い、教皇は同盟を従属させた。
シニョーリたち、ヴェネツィア共和国
ラヴェンナのポポロ広場
1218年の戦争後、トラヴェルサーリ家がラヴェンナ支配を行い、1240年まで続いた。短期間の皇帝代理支配後、1248年にラヴェンナは教皇領へ戻り、ダ・ポレンタ家が1275年まで長期のシニョリーア制を敷いた後、トラヴェルサーリ家が再び実権を掌握した。この時代の最も有名なラヴェンナ住民は、フィレンツェから追放されていたダンテ・アリギエーリであった。ダ・ポレンタ家の最後のシニョーリ、オスタジオ3世は1440年にヴェネツィア共和国によって追われ、ラヴェンナはヴェネツィアの領土に併合された。
ヴェネツィアによる支配は1509年まで続き、ラヴェンナ周辺はイタリア戦争の過程で侵略された。1512年、カンブレー同盟戦争の最中、ラヴェンナはフランス軍に略奪された。
教皇領への復帰
ヴェネツィアが後退させられると、ラヴェンナは再度教皇領の一部として、教皇の全権委任大使による支配をうけることになった。1636年5月、市はすさまじい洪水で被害を受けた。続く3世紀以上、運河網が近くの河川の流れを変え、湿地を干拓した。洪水の発生する可能性が減り、市の周りに広大な農業用のベルト地帯がつくられた。
サンマリノ共和国 Repubblica di San Marino
サンマリノ共和国 Repubblica di San Marino)、通称サンマリノは、イタリア半島の中東部に位置する共和制国家。首都はサンマリノ市。国土の周囲は全てイタリアで、国土の面積は十和田湖とほぼ同じで、大田区よりわずかに広い。世界で5番目に小さなミニ国家である。また、現存する世界最古の共和国とし知られる。
サンマリノは、現存する共和政体を採用する国としては世界でももっとも長い歴史をもつ。アメリカ大陸がヨーロッパ人に知られる以前、すでにサンマリノ共和国初代執政が就任していたといわれる。
1631年、ローマ教皇が独立を承認し、世界最古の独立共和国となった。その後、1815年には、ナポレオン戦争後のウィーン会議でサンマリノの独立が再確認されている。
ピエンツァ (Pienza)
ピエンツァ (Pienza) は、人口2,086人のイタリア共和国トスカーナ州シエーナ県のコムーネの一つである。市街地の歴史地区 (centro storico) は1996年に世界遺産に登録されている。
シエナの貴族ピッコロミニ(Piccolomini)家が神聖ローマ帝国皇帝のフリードリヒ2世からヴァル・ドルチャの地を与えられ、ピエンツァもその一部に含まれていた。当初、ピエンツァはコルシャーノという小さな村落に過ぎなかった。だが、このコムーネ出身のピウス2世が教皇となると、ピウス2世はこの地を自らにちなんでピッコロミニと名づけ、理想のルネッサンス期の街づくりに挑んだ。フィレンツェの建築家ベルナルド・ロッセリーノを呼び寄せると、1459年から工事が始まり、大聖堂を始めとする豪奢を凝らした数々の建造物を残した[3]。大聖堂、教皇の館が連なるピッコロミニ広場などの街並みは世界遺産として現存している。
イタリア散歩(その2)
今回散歩する人 :立川龍平 イタリア滞在歴7年、日本の機械メーカー社員、ローマ在住
イタリアの同散歩僚からはsinoryuと呼ばれている。趣味はバルで知らないイタリア人
との会話。時々なにを言っているのかわからないこともあるが、イタリア人は
ジェスチャーが 上手なのでだいたい会話は盛り上がって面白い。
Persona per fare una passeggiata questa volta: Ryuhei Tatsukawa 7 anni in Italia, dipendente di un produttore di macchine giapponese, che vive a Roma
È chiamato synoryu dallo stesso personale di passeggiata in Italia. Il mio hobby è il bar, italiani che non conosco.
conversazione con. A volte non so di cosa sto parlando, ma gli italiani
Poiché il gesto è buono, la conversazione è solitamente eccitante e interessante.